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書画

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 阿波守細川和氏と細川顕氏連署の奉書

阿波守細川和氏と細川顕氏連署の奉書

 

後醍醐天皇により、建武の中興(1333)が始められた時、足利尊氏は細川和氏を阿波守に推挙し、細川定禅を讃岐に居住させた。
足利尊氏は、建武政権に離反して九州に西走する時、阿波守細川和氏と足利尊氏陣営の軍事を司る兵部少輔細川顕氏に、国において勲功の軽重に応じて恩賞を行うように仰せ付けられた文書。
あて先の漆原三郎五郎は、板野郡富吉荘西方の地頭で、勲功の賞に勝浦荘公文職を宛がっている。
建武3年(1336)2月15日に出されているが、尊氏が実際に将軍になったのは建武5年である。
この文書は「南北朝遺文 中国・四国編」に下総・染谷文書としての原本と考えられる。 

広報の新聞報道の記事を参照下さい。

 

 飯尾常房(Inoo Tunefusa) 1422~1485年

飯尾常房(Inoo Tunefusa) 1422~1485年

 





武人、歌人、書家。通称は彦六左衛門。祖先は山城国の三善氏、三善康信は公卿であったが、源頼朝に鎌倉に招かれ、門注所の執事となり、その一族政常が阿波・麻植の庄西方の地頭となり、飯尾氏と彦六左衛門を称した。常房は将軍足利義政に右筆で仕え、また、細川成之にもつかえ、室町幕府の能吏、書吏として活躍した。和歌を堯孝法師に学び、書は鳥飼流をよくした。

 

 千 利休(Senno Rikyu) 消息文

千 利休(Senno Rikyu) 消息文

 





堺の人。千家の祖。納屋衆田中与兵衛の子、幼名は与四郎、名は宗易、号は抛斉、利休、利休居士。茶の湯を北向道陳、後に武野紹鴎に学ぶ。わび茶(草庵の小座敷の茶の湯)を基調とし、茶の湯の体系化を大成する。信長、秀吉に仕え、1585年正親町天皇より「利休居士」号を賜り、天下一宗匠と称された。のち、秀吉の怒りにふれ自刀した。

 

 小堀遠州(Kobori Ensyu) 1579~1647年 消息文

小堀遠州(Kobori Ensyu) 1579~1647年 消息文

 





遠州流の祖。近江小室藩主、伏見奉行、遠州守。豊臣秀長の家老小堀新介政次の子。名は正一、後政一、字は作助、通称遠州。号は弧篷庵、宗甫、大有、転合庵。徳川家康、秀忠、家光に仕え、作事奉行を勤める。千利休、古田織部と共に三大茶人と称され、遠州流茶道を興し、その茶風好みは綺麗さびと評された。定家流の書に優れ、和歌もよくした。

 

 貫名菘翁(Nukina Suo) 1778~1863年

貫名菘翁(Nukina Suo) 1778~1863年

 





徳島の人、初め矢野栄教に画を学び、後南画に転じ、空海の書を見て、西宣行、日高徹翁の師事、幕末の三筆の一人。

 

 吉成葭亭(Yosinari Katei) 1807~1859年 常盤御前

吉成葭亭(Yosinari Katei) 1807~1859年 常盤御前

 





徳島大岡本町の人。名は亀次郎、号は葭亭。吹螺の名人であった。鈴江貫中の父孝之助に画を学び、四条派の画をよくし、特に浮世絵風の人物画に長じていた。NHK大河ドラマ「義経」の場面、常盤御前が牛若を抱き、今若と乙若である。

 

 中山養福(Nakayama Osayosi) 1808~1849年

中山養福(Nakayama Osayosi) 1808~1849年

 





江戸で出生、狩野晴川院養信に入門。後藩の絵師となり、徳島住吉島に住む。橋本雅邦と共に狩野雅信にも学ぶ。花鳥画に長じていた。

 

 原 鵬雲(Hara Houun) 1835~1879年

原 鵬雲(Hara Houun) 1835~1879年

 





徳島の人。名は市助、のち一助、号は鵬雲。藩の絵師守住貫魚の弟子。文久元年(1861年)幕府の修好使節団に随行、ヨーロッパを巡歴、後、教育者となり」、広島市で没した。作品はあまり残ってなく、この画は西洋人を描いたもので、貴重な画である。

四国テレビの紹介サイト

 

 広島晃甫(Hirosima Koho) 1889~1951年

広島晃甫(Hirosima Koho) 1889~1951年

 





徳島の人、1912年東京美術学校卒業、1919年第一回帝展特選、後帝展、文展の審査員、版画に貢献し、晩年滉人。

 

 森 魚渕(Mori Nabuti) 1830~1909年

森 魚渕(Mori Nabuti) 1830~1909年

 



徳島の人。名は宇吉、号は初め美明、後魚渕。9才の時守住貫魚に入門、後各地を周遊した。貫魚門人中最も傑出した画人である。明治15,17年の内国絵画共進会で褒状を受ける。その技が認められ、同25年京都の中学校毛筆画教科書の版下を画く。当寺襖絵の一部。

 

 渡辺広輝(Watanabe Hiroteru) 1778~1838年 富士の四季

渡辺広輝(Watanabe Hiroteru) 1778~1838年 富士の四季

 

渡辺広輝(Watanabe Hiroteru) 1778~1838年 富士の四季

徳島の人、初め藩の絵師矢野栄教に師事、1796年幕府の絵師住吉内記広行に入門、後住吉広貫(広定)を後見、1809年藩の絵師、守住貫魚、鈴江貫中、佐香貫古を育成、画風は住吉派の気品のある細密描写、歴史画、山水、花鳥人物を得意とした。

 

 守住貫魚(Morizumi Tunara) 1809~1892年 近江八景の一部分

守住貫魚(Morizumi Tunara) 1809~1892年 近江八景の一部分

 

徳島富田秋田町の人。幼名は伸美、名は貫魚、字は士済、通称徳次郎。号は是姓斉,回春斉、輝美、定輝。16才で渡辺広輝に10年間師事、後江戸に行き住吉広定に入門。明治13年に大阪に移住、同17年の第2回内国絵画共進会で金賞受賞。後審査委員,帝室技芸員となり、日本画壇の重鎮となる。この画は若い定輝の時である。

 

 三好賢古(Miyosi Kenko) 1839~1919年 源氏物語図

三好賢古(Miyosi Kenko) 1839~1919年 源氏物語図

 

板野郡勝瑞の人。号は竹香、青連子と称した。14才で守住貫魚に入門、後、住吉広賢に入門。又、高野山で仏画を研修、指画にも長じていた。明治初年に貞光の折目邸へ描画に来て、17年間貞光で寄寓。各地に遊歴し、須磨寺、京都の南禅寺襖絵、八坂神社の三十六歌仙を描いた。当寺襖絵十六羅漢図の一部。

 

 三好賢古(Miyosi Kenko) 1839~1919年 源氏物語図

三好賢古(Miyosi Kenko) 1839~1919年 源氏物語図

 

板野郡勝瑞の人。号は竹香、青連子と称した。14才で守住貫魚に入門、後、住吉広賢に入門。又、高野山で仏画を研修、指画にも長じていた。明治初年に貞光の折目邸へ描画に来て、17年間貞光で寄寓。各地に遊歴し、須磨寺、京都の南禅寺襖絵、八坂神社の三十六歌仙を描いた。当寺襖絵十六羅漢図の一部。

 

 月岡雪斉(Tukioka Setusai) 1750~1839年 月次の絵

月岡雪斉(Tukioka Setusai) 1750~1839年 月次の絵

 

父雪鼎に師事し、人物魚類等を得意とした。雪鼎は近江国日野の生まれ、京都の同郷の高田敬輔に狩野派を学び、さらに西川祐信の風俗画を慕い、叙情的で品格のある美人画様式を確立し、月岡派を形成して関西浮世絵の中心的存在となる。